「ごめん、たけちゃん、ちょっと先に行っててくれる?」
「ん? なんで?」
「う~ん、ちょっと…」
妻は少し困ったような顔をして、言葉を濁していました。
この時、まだ付き合い始めて間もない僕と妻は、
上野の国立西洋美術館に来ていました。
先に入場券を買った僕が美術館の中に入って待っていると、
ほどなく妻がやってきました。
「お待たせ」
「どうしたの? なんかあった?」
「ううん、何でもないの。ほら、早く行こう」
「?????」
どうも釈然としないまま、妻に促されて展示場に向かいました。
広くて薄暗いその展示場には、たくさんの入場者がごった返していました。
「暗くてよく見えない」
「大丈夫? つかまってていいよ」
視野が後天的に狭くなる視野障害の妻は、
僕の腕につかまってゆっくりと歩きます。
視野が狭いと目に入る光の量も制限されてしまうようです。
美術館や博物館、映画館、夜道など、暗い場所は足元が見えなくなり
危険なので、特に気を付けています。
妻が視野障害であることを話してくれたのは、ずっと後のことだったので、
何も知らないその時の僕は、夜目が利きにくい体質なんだなくらいにしか
思ってませんでした。
当日の展示は、キリスト教色の強い宗教画がメインで、
大変興味深く鑑賞できました。
ただ、妻に絵の解説をしようとしてちょっと指を絵に向けたところ、
「絵に触らないでくださぁぁぁぁぁいっ!!」
と、非常に大げさに学芸員が声を出して注意してきたのには、興ざめでした。
こんなに絵と離れているのに、どうやって触れるんじゃあああっ!
と、思いましたが、経験が浅い学芸員で緊張していたのだと判断し、
イエス様の手前、怒りを鎮めて鑑賞を続けていました。
美術館を後にした僕たちは、今はもう閉店している「鰻弁慶」という
御徒町にあるお店で夕食にしました。
「このお店は私が子供の頃、よくお母さんに連れてきてもらってたの。
すごく美味しいんだよ。好きでしょ、鰻? ご馳走してあげる」
「えっ、ホントに!? 大好き大好き! ゴチになります!」
妻は障害者割引で色々な施設や交通機関を利用することができます。
バス、電車、タクシー、美術館、映画館、テーマパークなどなど。
同伴者も1名までなら同様に割引の恩恵を受けることができます。
どうしても割引(無料)で美術館に入場したかった妻は、
自分が障害者であることを告白する勇気が無かったため、
先に僕に入場券を買わせて中で待っていてもらうことにしたのでした。
後で思い出の鰻をご馳走するお金を捻出するために。
あの時食べた鰻重、本当に美味しかったなあ…。
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